20世紀のアメリカを代表する音楽となったジャズですが、ラジオとレコードはジャズを世界に紹介する原動力となり、それぞれの時代に素晴らしいレコード・レーベルが生まれました。クラシック・ジャズの匂いを残していた40年代から、古き良きジャズを中心にジャズを世界に伝え続けたのが、ジャズのコンサート・プロデューサーでありレーベル・オーナーでもあったノーマン・グランツでした。20世紀のジャズの名レーベルとして、ヴァーヴとブルーノートを挙げない人はほとんどいないでしょうが、グランツはヴァーヴ創設者としても知られた人物です。

今回は、ノーマン・グランツが作った数々のレーベルを、ジャズの歴史と彼の生き方と共に紹介させていただきます。

■ジャズのレコード産業化の背景 ブルーノート創設者アルフレッド・ライオンとの共通項

1918年生まれのノーマン・グランツは、リアルタイムでジャズ・エイジを体験しています。彼はユダヤ移民の末裔で、証券取引所で働いていました。資本主義全盛の現代では信じがたい事ですが、もともとキリスト教文化圏では金に関わる事は不浄とされており、これが金融に関する事をユダヤ人が受け持つ遠因になったという説があります。

ヨーロッパ移民のユダヤ人実業家という面は、じつはブルーノートを創業したアルフレッド・ライオンも同じです。20世紀のジャズの歴史にもっとも影響力を持ったレコード・レーベルをふたつあげろと言われたら、私ならヴァーヴとブルーノートを挙げますが、そのどちらもユダヤ人実業家によって形となった事は注目に値する事ではないでしょうか。

ユダヤ人の人口は、唯一のユダヤ人国家であるイスラエルよりも、実はアメリカ合衆国の都市部の方が多いという統計があります。それでもユダヤ人は欧米社会のマイノリティであり、同じマイノリティとしての献身や夢が、アフリカン・アメリカンの深くかかわった音楽であるジャズの発展にも強く影響した、このように見る事も出来そうです。

■古いジャズのレコードでよく目にするJATPって、なに?

グランツのジャズへの関わりは、彼が第2次世界大戦に従軍した際に、軍の娯楽や慰問を担当する部署に配属されたときにはじまりました。そこでジャズ・ミュージシャンと知り合う事になったグランツは、ロサンゼルスのフィルハーモニー・オーディトリアムで、ジャズのジャム・セッションをベースとしたコンサートを企画するようになります。このコンサートはシリーズ化され、「Jazz at the Philharmonic」と呼ばれました。この名称を省略したのが「JATP」というわけです。最初は借金を抱えてのスタートだったそうです。

■Clef、Norgran…Verve 以前に生まれたふたつのレーベル

商才に長けたユダヤ移民のノーマン・グランツは、JATP の録音や録音権を、色々なレコード会社に売る事で赤字を埋め、ジャズ・エイジ去った後のジャズ・ミュージシャンにギャランティーを支払う事でジャズを経済面から支えます。さらにそのレコードが戦後の世界で聴かれ、これが戦後にジャズが息を吹きかえす原動力のひとつとなりました。

そしてグランツは、とうとうレコード・レーベル自体を自分で立ち上げ、JATP の録音を水からリリースするようになりました。1946年設立のクレフ(Clef Records)と、53年設立のノーグラン(Norgran Records)です。

クレフのカタログは、12インチLPのシリーズである600番台と700番台だけでも150ほど、ノーグランは10インチLPが32タイトル、12インチLPが100タイトル以上並ぶという、見事なカタログをなしています。現在、クレフやノーグランのオリジナル盤を手に入れようとしたらなかなかのプレミアですが、それだけの音楽内容を伴った見事なカタログだと思います。

■ついに登場、ジャズの代表レーベルのひとつ、Verve

ノーマン・グランツが20世紀のジャズを代表するレーベルの大本命であるヴァーヴを創設したのは、1956年です。ヴァーヴ成立とともに、グランツはクレフやノーグランでリリースしていたタイトルをヴァーヴに吸収しました。同じタイトルでも、レーベルがノーグランとヴァーヴの2種類が存在するレコードなどあるのは、その為です。

56年というと、ビバップやウエストコースト・ジャズはおろか、東海岸でもハードバップの波もとっくに起きていた頃です。そうした中、ヴァーヴが紹介したのは、クラシック・ジャズの名ミュージシャン、ビバップのチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、そしてスタン・ゲッツなど本拠地であった西海岸のミュージシャンでした。

血気盛んだった若い頃、私はどうしても派手で激しいもの、新しいもの、非商業主義の芸術性の高いもの、こうしたジャズを好んで聴いていました。しかし、マイルス・デイヴィスが言ったように、ジャズというのは本来ルイ・アームストロングやデューク・エリントンが作り上げたあの音楽の事だったと思うのですよね。それを最大のところまで洗練していくとどういう音楽が完成するのか…ヴァーヴが紹介した音楽は、そういうジャズの事だったのかも知れません。時に楽しく、時にアメリカ音楽ならではの最高のレイドバックを楽しめる音楽。これはモダン・ジャズ以降のジャズが忘れていった特性かも知れません。

■ノーマン・グランツが行ったもうひとつの偉業

グランツの作った3つのレーベルのカタログを見ていると、気づく事があります。黒人や白人といった区別をしていない事です。アメリカの現代史をふり返ると分かる事ですが、人種差別問題は20世紀の合衆国社会の大きな課題でした。40年代と50年代に、白人であるノーマン・グランツがこのようなレコード・レーベルを作った事は驚きです。

グランツが人種によって報酬額を変えなかった事は、よく知られています。グランツが主催したコンサートでは、たとえその会場の洗面所が人種別に分けられていても、その看板を撤廃して行われたそうです。人種差別にしても赤狩りにしても、それが行われる時には死者を生むほど苛烈になる合衆国社会で、こうした理想を貫いたことは、強い信念がなくては出来ない事だったのではないでしょうか。スイング・ジャズの全盛期は、白人楽団ばかりが優遇される状況もあったそうです。しかし戦後のジャズ復興期にあって優れたアフリカン・アメリカンのミュージシャンが積極的に紹介されたのは、人種差別を行わなかったノーマン・グランツやアルフレッド・ライオンというプロデュ―サーがいたからではないでしょうか。彼らの作ったレコード・レーベルは、良い音楽を紹介するだけでなく、差別をなくし彼らが生きる社会を向上させようという夢や信念が託されたレーベルでもあったわけです。

■ノーマン・グランツが作った最後のレーベル、Pablo

グランツがヴァーヴに関わったのは60年までであり、同年12月に彼はヴァーヴを売却します。ヴァーヴはのちにヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどロックのレコードもリリースするようになりましたが、その頃にグランツは関わっていません。

そんなグランツが、1973年に最後のレーベルとして立ち上げたのが、パブロ(Pablo Records)でした。名前の由来は友人であったパブロ・ピカソから取ったもので、レーベルのロゴはピカソのデザインによるものです。

実際の事情は分かりませんが、パブロのカタログを見ると、オスカー・ピーターソン、エラ・フィッツジェラルド、アート・テイタム、ジョー・パスなど、かつて彼がマネージメントするなど、仕事を超えて彼と親交の深かったミュージシャンの名が並んでいます。これは、一度は音楽業界粗足を洗った彼が、余生の楽しみに始めただけでなく、すでにアーリータイムやバップ・イディオムの音楽では生きる場所がなくなりつつあったベテランの友人ミュージシャンを助けようとしたのかも知れません。

■ノーマン・グランツが生み出したレコードの現代的な価値

ジャズを聴き始めると、最初はモダン・ジャズとそれ以降から聴き始める事になるかと思います。ところが、モダン・ジャズ以前となると、モダン・ジャズほどには簡単には振り返る事が出来ない状況に直面するでしょう。そんな時に、クラシック・ジャズとモダン・ジャズの間を埋める記録としてありがたいのが、ノーマン・グランツが残したレコードの数々ではないでしょうか。

エリントン楽団の1番アルトとして素晴らしい演奏を聴かせたジョニー・ホッジス、彼と双肩といわれたビッグバンド・ジャズの名ソリストのベニー・カーター、視覚障害を持ちながら超絶技巧で世界を驚かせ、のちのバド・パウエルやビル・エヴァンスの教科書となったアート・テイタム。こういうミュージシャンの演奏は、ノーマン・グランツのレーベルが無かったら、すでに歴史の彼方に消えてなくなっていたかもしれません。そしてそれらの音楽はモダン以降のジャズに劣らないどころか、表現ではむしろその上を行くほどの素晴らしい技術を持っています。

ヴァーヴやパブロのレコードを聴くとき、ノーマン・グランツとミュージシャン、あるいはその時代を考えながら聴くと、また違った聴こえ方がしてくるかもしれません。そしてもし、ノーマン・グランツ関連のレコードを手放そうとお考えであれば、その価値が分かる専門の業者に査定を出してみると良いかも知れません。クレフやノーグランの伝えた音楽の良さがどこにあるのか、それを理解できる音楽人も減ってきた事ですし。