ジャズの名レーベルといって誰もが最初に思い浮かべるのが、ブルーノート・レコードではないでしょうか。ジャズ・ファンでなくともその名を聞いた事はあるでしょうし、ジャズ好きであれば、特にブルーノート・レコードのファンでなくともアルバムの2枚や3枚は手にしているでしょう。

しかしモダン・ジャズ誕生前から存在する古いレーベルでもあり、それだけにカタログされたレコードも膨大。名前を知っていてもブルーノートが実際にどういうレーベルなのかをよくご存じない方もいらっしゃるかと思います。

今回は、ブルーノート・レコードについてぜひ知っておきたい豆知識を書かせていただこうと思います。

■ドイツ移民が作るアメリカ文化 創始者アルフレッド・ライオンの歴史

ブルーノート・レコードを創業したアルフレッド・ライオンはドイツ系の移民です。明言は避けられていますが、書籍『ブルーノート読本 アルフレッド・ライオン語録』(小川隆夫、春日出版、2009)などでは、「ドイツではナチスの反ユダヤ政策が厳しくなり(中略)ライオンはフランス人の銀行家と再婚した母親についてパリに移る」といった形で、間接的にライオンがユダヤ人であった事がほのめかされた書籍が多いです。

ライオンはドイツにいた時から極度のジャズ狂で、ハイスクール時代にすでに「ホット・クラブ・オブ・ベルリン」という、レコード・コンサートを主宰するジャズ・サークルを作っていました。そんなライオンは、ジャズに魅せられて会計学を学ぶ名目で渡米。一度はドイツに戻るものの、今度は貿易会社に入って二度目の渡米。そしてライオンは、ひょんなことからブルーノート第1号レコードを作る事になりました。

アメリカに大学文化やハンバーガーの文化を伝えたのは、ドイツだと言われています。また、唯一のユダヤ人国家イスラエルよりも多くユダヤ人が住んでいるのもアメリカで、これはヨーロッパでユダヤ人が迫害されたことが大きく影響しています。特にナチ政権となってからのドイツ系ユダヤ人のアメリカ移民は相当な数。そして、キリスト教文化の中では金銭にまつわる仕事は不浄のものとされていたため、ユダヤ人は金融業を押しつけられたという歴史があります。ハリウッド映画産業とユダヤ人の関係は有名な話ですが、ニューヨークのジャズでも、そのレコード産業化にドイツ移民のユダヤ人が役割を果たした事になり、このあたりに歴史の綾を感じます。

■実はSP盤時代から続く老舗!ファンの作った私家版のレコードからのスタート

ジャズ・マニアのライオンは、ニューヨークでジャズのレコードを多く販売していたコモドア・ミュージック・ショップの常連になり、ジャズのプロデューサーやミュージシャンと知り合うようになっていったそうです。そうした経緯から、アルバート・アモンズらのライブを観に行った後に楽屋に入る事が許されました。そして彼らを目にした途端に、ライオンは思ってもいなかった「レコーディングさせてほしい」という言葉を発していたそうです。これがブルーノート・レコード第1号作品となりました。

このSPレコードは、ライオンが友人に配るために作ったため、50枚しかプレスされませんでした。しかしアルバート・アモンズらが「演奏の出来が良かったので、ぜひ市販してくれ」と頼んできたため、うち20枚が販売されたそうです。現在ではまず入手不可能、仮に見つかったとしても途方もないプレミアとなるレコードです。

ちなみに、SP時代のブルーノートは200枚近いレコードをリリースしましたが、それらは『ブルーノートSP時代1939-1952』という8枚組CDとして復刻された事があります。今ではなかなか聴く事の出来ない魅力を持つ音楽群で、モダン・ジャズ突入前のニューヨーク・ジャズを聴いてみたい方はぜひ探してみてはいかがでしょうか。

■シェラック盤からビニール盤、そしてクラシック・ジャズからモダン・ジャズへ

ブルーノートの第1号録音は1939年。つまり、ビバップ時代もまだ突入していない頃でした。これが40年代なかばになるとチャーリー・パーカーの出現によってジャズ革命が起きます。ビバップ以降のジャズをモダン・ジャズといいますが、クラシック・ジャズの大ファンだったアルフレッド・ライオンは、当初はバップ/モダン・ジャズの録音に躊躇したそうです。今ではモダン・ジャズ屈指のレーベルとして知られているブルーノートが、面白いですね。

バップ旋風は、レコードがSP盤からLP盤へと変わっていく時代に重なっていました。ブルーノートは、モダン・ジャズの大スターだったチャーリー・パーカーの録音が出来ませんでした。しかし、パーカーと演奏したバド・パウエルやマイルス・デイビス、そして別の意味でバップ/モダン・ジャズを象徴する存在だったセロニアス・モンクの録音を残しました。これらはビニール盤のLPレコードとして発表されましたが、当初LPレコードは10インチが主流。しかしLPはすぐに12インチ盤が主流となりました。

レコードはマスターやスタンパーの関係で、ファーストプレスに近いものほど音が良いです。稀に見るブルーノートの10インチ盤がプレミア化している理由は、希少価値もさることながら、音が良いとされている事も理由のひとつでしょう。

■ブルーノートにまつわる重要人物たち

SP盤からLP盤になって、大きく変わった事があります。アルバムごとに独自のジャケットをつけられるようになったことです。ブルーノートのレコードは統一感あるモダンなジャケット・デザインをしていますが、これはLP時代に合わせ、実際にデザインにこだわっていた結果です。

ドイツ時代、ライオンとともに「ホット・クラブ・オブ・ベルリン」を運営、ブルーノートも共同で経営していたフランシス・ウルフは写真家でした。彼がブルーノートのジャケット・フォトに大きく寄与しました。ブルーノートのツートーンのアーティスト写真は、それだけでジャズのレコードの特徴となっている感すらありますが、あれらのほとんどは、フランシス・ウルフが撮影したものです。

他にもふたり、ブルーノートが一流のレーベルとなるために大きく寄与した人物がいます。デザイナーのリード・マイルス、そして録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーです。ヴァン・ゲルダ―はブルーノート専属エンジニアではありませんが、50年代のモダン・ジャズ黄金時代のイースト・コースト・ジャズの録音面でのサウンド・イメージを創出した名エンジニアでした。ブルーノートには、ウェイン・ショーター在籍時代のジャズ・メッセンジャーズの録音がいくつもカタログされていますが、そのドラムサウンドの素晴らしさといったら、現代でもこれに迫るものは少ないのではないでしょうか。

■ブルーノートの○○番台って、どういうこと?

さて、ブルーノートのカタログを語る時に、「○○番台」なんて言われる事があります。あれって、どういう事なのでしょうか。簡単に言うと、当初はレーベル側が音楽の種類によって型番を変えたことが発端になっています。

まず、10インチLP時代。これには7000シリーズと5000シリーズがあり、7000番台は主にディキシーランド・ジャズ、5000番台はスイング、中間派、そして終盤になるとモダン・ジャズが食い込んできます。

12インチLP。コレクターの多い1500シリーズは全98枚(欠番1、未発表1)のモダン・ジャズのシリーズです。1500シリーズが終わると、モダン・ジャズは4000シリーズに突入しますが、ここにはフリージャズや新主流派といった、さらに新しい音楽も含まれるようになりました。個人的には、いま聴いても音楽的な刺激に満ちたタイトルがいくつも含まれる4000シリーズが好きです。

ほかには、クラシック・ジャズの1200シリーズ、ヴォーカルものの9000シリーズがありますが、9000シリーズは2枚しかリリースされませんでした。

■アルフレッド・ライオン去りし後

ライオンは本当のジャズ・キャットで、ミュージシャンの経済状況を助けるためにレコーディングを実施してギャラを渡したなど(マイルス・デイビスやリー・モーガンのエピソードは有名)、ジャズやジャズ・ミュージシャンに対する愛情に関するエピソードに事欠きません。しかし、ビートルズ旋風の到来とともにジャズのレコードは売れなくなり、さらにライオン自身の体調も悪化。こうしてライオンとウルフは相談し、ブルーノートの全株式をリバティに売却する事を決意します。その後も数年はブルーノートのプロデューサーとして働きましたが、67年にライオンはブルーノートを離れ、71年にウルフは他界。ここで戦前から戦後の東海岸ジャズを記録してきたレーベルとしてのブルーノートは終わりました。80年代以降に録音を再開したブルーノートは別レーベルと思った方が良いほど、作品に対する制作姿勢も音楽性も違うものでした。

レコードって、ミュージシャンだけでなく、それを作る人、そしてそれを聴く人、みんな合わせてひとつの作品という気がします。少し長くなりましたが、大雑把にこのあたりの事を知ってから、ブルーノートのレコードを聴くと、色々と聴こえ方が変わってくるかも知れません。